<第22回投稿 12月>

言葉による後押し

岐阜市教育委員会 教育委員 武藤玲央奈

 教育委員徒然日記も2巡目に入ったとのことで、浅学非才な私にもお鉢が回って参りました。
去る11月10日、当連合会恒例の研究総会が開かれました。私は、あいにく仕事の都合で、午前中のみの出席でした。
午前中最後のプログラムが、プロゴルファー森口祐子さんの講演でした。拝聴された関係者の方も多いと思いますが、私の印象に残った内容の一端をご紹介します。
森口さんは、結婚後もプロゴルフの一線でご活躍された方ですが、結婚前のように十分な練習ができず、そのことを旦那さんに愚痴ったそうです。旦那さんは、「~しかできなかった」じゃなくて、「~もできた」と思えばいい、とおっしゃったそうです。同じ内容でも、言葉のかけ方で、受け止める側の印象ががらりと変わるわけです。
また、森口さんが旦那さんと意見が合わない時に、平行線だと愚痴を述べたそうです。旦那さんは、「平行線なら離れることはないからいい」とおっしゃったそうです。森口さんがこの話を旦那さんのお友達に話したところ、そのお友達は、「線路の真ん中に立って線路の続く方向を見たら、少しずつ近付いていくように見える」とおっしゃったそうです。同じ言葉でも、捉え方を変えれば、ポジティブな意味合いに変わるわけです。
森口さんのお話から、言葉による後押しの重要性を感じ取ることができました。今や社会でも、ポジティブな言葉がけを心がけることは常識となりつつあります。学校現場にたくさんのポジティブな言葉による後押しが花咲いて、子供達の自信につながればいいなと願っております。

 

我が家業をふりかえる

羽島郡二町教育委員会 教育委員 久納 万里子

 我が家が酒造業をはじめたのは、祖父の記録によれば享保9年(西暦1724年)で、私で14代目にあたります。初期は、「錦屋」という屋号で商売を行い、お酒の銘柄は「錦江正宗」とのこと。酒造を始める前は、繊維関係の仕事をしていたのかな、と勝手に想像しています。かつて笠松は港町として栄えた交通の要所でした。北から来た業者や三重の方面から来た者たちが笠松で一休み。その折の最大の楽しみが宿屋でお酒を飲んでリラックスすることだったのでしょう。また、木曽川の伏流水がお酒にとても適していたのも大きなメリットだったにちがいありません。
会社組織になったのは昭和30年代で、その頃より商標は「美笠万代」。「美笠」は「美しい笠松」と土地にちなんでつけたものと思われ、「万代」は「末永くあれ」との縁起のいい名前であり、私の名前にもその一字が使われています。その当時の様子を後年、母は趣味の短歌で
初槽(はつふね)に 乗せし醪(もろみ)は 絞られて
白濁の酒をしたたり落とす
と詠んでいます。
ただ、昭和末期から酒造業は低迷を続け、我が家は平成の初め、父の代で自社製造は休止しました。それから現在に至るまで縁ある他の蔵元からお酒を移入し、販売しています。製造を休止し、四半世紀が過ぎたころ母は
空き蔵(あきぐら)に 今も聞こゆる 酒唄よ
蔵人(くらびと)たちの 交せる声よ
と詠んでいます。
14代目の私は、酒造りに関しては全く経験していませんが、卒業した大学の同窓会とコラボし、あらたなネーミングのお酒を発表しました。それが、同窓生にお酒の名前を募り、「ばか山」と名付けられた純米酒。キャンパス内に芝生の広がるのどかな場所があります。そこは、あんまりそこでリラックスしすぎるとばかになっちゃうよ~と「ばかやま」の愛称がついた学生人気の場所であり、学生が抜群の愛着をもつその愛称がお酒に選ばれたのでした。主に入学式、桜まつり、学園祭、卒業式で販売されています。
娘(こ)の学びし ICUで売り出しし
清酒「ばか山」 丘の名称
老朽化した酒蔵も取り壊し、いつ廃業しても悔いのない家業ですが、この機会をお借りして文章にしてみました。私の体のどこかには、まだ麹菌が生きているような、蔵人の酒唄が聞こえてくるような…。今夜はお気に入りの盃で一献ゆっくり味わいましょうか。